「光の中の彼女」  この物語は、故郷を遠く離れて見ず知らずの土地に一人暮らしていた 私の思い出話です。  故郷を遠く離れ、故郷に帰る日を夢見ながらめげそうになった私の心 を優しく暖めてくれた見ず知らずの”彼女”、三毛の美猫との思い出で す。  …彼女と最初に出会ったのは、私が大学生2年生の時。それは長い夏 休みも終わり、大学の授業も後期に入ったある初秋の日の事です…  当時私は、マンモス大学の九州にある分校に通っていました…この大 学では、教養課程の2年間を地方の分校と本校で過ごす組に別れ、最後 の2年間は本校で過ごすシステムでした…  と、言えば聞こえはいいのですが、ありていに言えば、入試の際に出 来の悪い学生を地方に追いやって篩に掛けてしまおうと言う事です。  その日は鹿児島沖に小型で勢力の強い台風があり、早朝に九州本土に ほぼ間違いなく上陸すると予想されていました。  私の通っていた大学は福岡県宗像市にありましたが、この時はまだ台 風の影響が無く、その日の朝は風が強かったのですが、空には奇麗な青 空が広がっていました。  そんな中を私は、いつものようにの田圃の稲を横目に見ながら、自転 車で大学に行ったのです。  …思えば、これが嵐の前の静けさだったとは…  大学の講義の1現目の始り頃、校舎の南側に見える山の向こうからみ るみる内に雨雲がこちらに向かってくるのが見えました…まるで、山か ら沸いて出るように…  そして、1現目が終わると、いきなり強い風が校舎の窓ガラスを叩く 様になったかと思う間もなく、私のいる大学の上空は空に墨でも流した かの様な真っ黒い雲に覆われました。  そして、ぽつりぽつりと雨が降り出してきたのです。  「あーあ!とうとう降ってきたか…」  外を見ていた友人がつぶやくと、ラジオを聞き入っていた別の友人が、  「おい、どうやら上陸した様だぞ…」  「なにが?」  「ばかだなぁ!台風だよ、台風!!」  その声に回りの人間は反応しました。…特に、地元出身の人間 の反応が素早かったように記憶しています…  「おい!進路は?」  「まっすぐこっちに向かっているらしい…」  「まずい…なぁ」  地元出身の友人達はにわかにざわめき始めました…  私みたいに台風にあまり縁の無い地方の出身者は訳が解らず、  「なに慌ててんの?」 と聞くと、  「あのなー!台風は上陸すると動くスピードが早くなるんだ!だから、 今日の午後にはこの辺は暴風域に入るんだよ!」  と、地元出身の友人はあきれ顔で言いました。  そう話している間にも雨足がどんどん激しくなってゆき、叩きつける 様に降ってきました。  加えて風も勢いを増し、明らかに台風の影響が出始めたのです。  講義が2現目の終り頃、校内放送で帰宅令が出されました…しかし、 外はもう既に暴風で傘などはとてもさせない状態でした…  友人達と駅に向かうと、鹿児島本線は台風のために止まっているとの 事…  電車通学の友人達はしかたなく、大学近くまたは駅近くの友人の下宿 に向かってそれぞれ散って行きました。  私は、とにかく下宿に帰ることにしました。しかし、風は余りに強く、 私は途中で自転車を降りて歩かねばなりませんでした。  朝方横目でみた田圃の稲は、その重たい穂を台風の強い風に煽られて さも苦しそうに靡いていました。  私は田圃の中の細道を突風に何度もよろめきながら歩いて行き、よう やく下宿の近くまでたどり着いたとき、私の目は田圃の畦道の上で動い ている泥の塊を認めました。  「…?」  私は最初は驚き、不気味に思って後ずさりさえましたが、良くみてみ ると、それは泥だらけの猫の様でした。  私は相手が何か判ると、自転車を放り出して近寄りました。  見ると猫は、その稲の穂が黄金色に色づくのを待つばかりの田圃脇の 泥溜まりに足を取られてもがいていました。  「おい、大丈夫か?」  と言って、私は猫を泥溜まりから助け起こそうとしましたが、猫はそ んな私の気持ちが判らず、逆に泥の中で暴れ回るばかりです。  その時、私は引っかかれてしまいました…後にも先にも私が彼女に引 っかかれたのは、この時だけです…  私自らも泥だらけになり、引っかかれながらも泥だらけの猫をだき抱 えると、自転車の荷台に乗せ下宿に向かいました。  …それが、”彼女”との出会いでした…  今になって思うと、当時何であんなになりながらも、”彼女”を田圃 から助けたのか不思議に思うときがあります…多分、あの頃は寂しかっ たのでしょうか?それとも、”彼女”に惹かれる物があったのでしょう か?  下宿に到着すると、先に帰っていた先輩が、  「お帰り、なんだ?泥だらけじゃないか!!それに…なんだ?その泥 の塊は…?」  先輩は、私と猫を交互に見て驚いていました。  「あっ…彼?そこの田圃の畦にいたので連れてきました」 と、私は猫を指して言いました。  私は、この時はまだこの猫が”彼女”とは気が付かないで、”彼”だ と思っていたのです。  「お前…物好きだなぁ!まあいいや、風呂沸かしといたぞ!早く入っ ちまえ!!」 と、先輩は呆れ顔で言いました。  「はい、スミマセン」  私はなにか申し訳なさそうに返事をしました。 * * * * * * * * *  この猫はちょっと変わっている猫で、私はよく下宿の猫を風呂に入れ ましたが、普通猫を風呂に入れると結構嫌がるものです。しかし、この 猫は不思議にも一言も鳴かずにおとなしくしていました。  風呂から上がって猫をタオルで拭いてやると、猫は女の子だと言う事 が判りました…それも、結構美人の三毛だったのです…  私は猫…いえ”彼女”の前に腹ばいになり、目線を”彼女”と同じに すると、  「へーえ、あんた結構べっぴんだね!!」 と、声をかけました。  ”彼女”はちょっと首を傾げました。そして尻尾をピンと立て、静か に私に近ずいてくると、その身を私に摺り寄せてきました。  私は”彼女”の背中にそっと手を当てると、かすかに震えていました…  (寒いのかな…?) と思い。  「ちょっと待ってな!!」  私はそう言うと”彼女”に毛布をかぶせ、そして冷蔵庫から牛乳を取 り出し、軽くあっためてから”彼女”に勧めました。  ”彼女”は、座り直すとあっためた牛乳を美味しそうに飲んでいまし た。  牛乳を飲み終わって、満足そうな顔をしている”彼女”に、私が座布 団を勧めると、”彼女”は座布団の上にちょこんと座りました。  私は台風が気になり、テレビをつけ台風の情報を聞くと、台風はまっ すぐこの土地に近ずいているとの事…その途端、視界が暗くなりました。 最初、なにが起こったのか判らなかったのですが、停電と気づくのにそ う時間は掛かりませんでした。その間、”彼女”はじっとしていました…  私は普段、部屋に飾ってあるランプにオイルライターの油を注いで火 を付けました。  ”彼女”は、ランプの炎に興味があるのか、じっと目を細めてランプ の炎を見ていました。  外はますます風雨が強くなってきます。  しばらくすると”彼女”は、寂しいのか私の膝の上に乗り、私の顔を ジッと見上げました。  そして、私が嫌がらないことを確かめると、またランプの炎を見てい ました…  そのうち、ランプの灯る部屋の中で、する事がなくのんびりとラジオ を聞いている私の膝の上で、”彼女”は静かに寝息をたてていました。 * * * * * * * * *  やがて…台風も通過し、西の空から窓越しに日の光が入るようになる 頃、”彼女”はふいと立ち上がり、ドアの方に向かいました。  「行くのか?」  ”彼女”は、私の言葉に振り返りもせず、ドアの所に行きました。 そしてドアを軽く引っかき、尻尾を立てて左右に振りました。私がドア を開けてあげると、静かに玄関の方に行きました。  玄関の高い段差を音もなくふわりと降り立ち、通常開けっ放しの玄関 を出ると、夕日が”彼女”の顔に当たりました。その間、私は黙って ”彼女”を見ているだけでした。  その時です。”彼女”はゆっくりと私に振り返って、そしてニッコリ と笑ったのです。この話を他の人にしても信じてはくれませんが、たし かに私には”彼女”が笑ったように見えたのです。  そして、すばやく身を翻すと、”彼女”はどこかに去って行ってしま いました…その後…”彼女”はどうしたかと言いますと、”彼女”は思 い出したように私の下宿に訪れて来たのです…しかし、その度に”彼女” は泥だらけの格好で来るのです。どうやら、風呂に入れてもらうのを目 的に来るようでした。  ”彼女”がどうして泥だらけになって来るのかは良く判りませんでし たが、一度だけ蛙をくわえて来ましたから、田圃の蛙を取って泥だらけ になるようです。蛙が”彼女”の食料の様です。  そして、その年の冬、いつものように泥だらけで来た”彼女”を風呂 にいれてあげて、その晩私の部屋で一泊した翌日に出て行ったきり、 ”彼女”はもう二度と私の部屋に来る事はありませんでした。  私は、今でもはっきりと思い出します…夕日を浴び、その毛がまるで 金色に輝くビロード細工の様に見え、そして、私に対してニッコリと笑 った顔を… 藤次郎正秀